昭和51年4月14日 朝の御理解
御理解第15節「氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。」
他宗教と金光教の相違がはっきりしておる御教えの一つです。あらゆる宗教がやはりこの寄進勧化という事を致します。それは当然の事として寄進勧化がなされるわけですけれども、教祖金光大神によって現れられた神様、いわゆる私共が拝まして頂いておる天地金乃神様という神様は、寄進勧化をしては神は喜ばんという性質の神ようなんです。
氏子が真から用いるのは神もヒレイ(神の威徳または盛大の意)じゃがと、お道の信心は、真または真心をもって教えの生命というか貫いておるもの、一貫しておるもの、それは真であり真心である、いわゆる信心の真を現すという事。
その信心の真が現されることになりますと、神もヒレイじゃがという、いわゆる神様の勢、神様のお歓び、そのごヒレイに浴する事ができる。
今日私は御祈念中にプラス、マイナスという事を頂いた。どういうことか分かるらなかった。この一五節を頂いて初めて、ははあプラス、マイナスとはこういう事だなと感じたんです。
例えばお金に致します。お金を貰う事はプラスであり、何かに出さなければならない事は、やはりマイナスです。
病気でもして、医療代薬代、そりゃもう、病気で苦しみという損をしただけでなくて、お金までも損をしなければならん、マイナスになる、病気をするとそれだけマイナスになる。
宝くじなら宝くじに当たるとそれだけプラスになる。
皆がそういう観念で金が儲るという。それは儲っただけプラスになる。損をする、損をしただけはマイナスになる。
ところが信心によるところのマイナス、いわゆる信心の真をもってて現すところのマイナス、それは心ずプラスになるのです。
プラスになったようでマイナスになり、マイナスになったようでプラスになる、それが私は信心の真、いうなら信心の真を現すという一つの反応というか、現れてくると思うです。
そして私共がいろいろ分からせて頂く事は、お供えでも自分がしておるのでなくて、させて頂いておるんだなという事である。させて頂くのである。
それが信心の無い人やら、薄い人やらまた他の宗教の人達は言うかも知れん。金光様に参りゃやっぱり時間もいる、お供えもせんならん、金もいる、金と暇がなけりゃ金光様の御信心はできんという人もある。
けれども金光様の信心をさせて頂いて、なるほどお参りに一時間かければ一日の一時間マイナスになったようである。二時間暇を欠いだら二時間マイナスになったようである。ところがです、そこに真から用いるのは神もヒレイじゃがとおっしゃるヒレイに浴することによってです、その一時間が一時間位のことではない。大変なマイナスになるどころかプラスになる事実が現れてくるのが私はお道の信心だと思う。
昨日も十三日会で、田主丸のむつや(呉服店の屋号)の石井信司郎さんが発表しとりました。
先日から大祭前の入殿(青年会十日、十一日入殿)御用入殿があった。やはりお店を呉服店とベビー用品と二軒お店を持っております、人手も不足です。泊り込みで御用せんならん、ですから泊り込みではできないと思った。けれども青年会長をしとるからそこんところを神様にお願いをして御用をさして貰って、もう本当に今度の御用程一生懸命に、一心不乱に御用さして頂いたことはなかった。家で手が足らんだろう困っとるだろうという事は思い出しもせん程に一生懸命に御用を、まあ私としては初めてあれだけ御用に打込んだという、いわゆる信心の真を現した。いわゆる氏子が真心から用いるという、いうならば自分の体を神様へ用いた。一日なら一日、二日間なら二日間お供えをした。
だから普通の計算でゆくと大変なマイナスになっておるわけなのですけれども、帰ってみてから驚いた。とにかくいつもに倍する売上げであった。しかも妹が一人留守番しとるだけであって、手がなかったのだけれども、妹の文香さんの話を聞くと、一人のお客さんがすむと次のお客さん、次のお客さんがくるとまた次というように全然ダブらなかった。 本当に今日は兄さんが御用頂いているから、これも神様のおかげじゃろう。いわゆる神の用を足せば氏子の用は神が足してやるとおっしゃるのはこういう事だろうという体験を頂いたという発表をもちっと細々と実感をもって発表しとりました。
ですから二日間より三日間、三日よりも四日間、それこそ神様のいかにも、いろんな意味でマイナスになったような、時間も金もマイナスになったようだけれども、マイナスどころではない。もう限りないプラスに繋がっていこうかというようなおかげを頂いとる。それが神のヒレイじゃがと、神のヒレイに浴したからです。
問題は氏子が真から用いる事なんだ。もうこげんして御用項きよるばってん、家じゃ困っとろう。本当に信心も、それこそ暇と金がながらねばできんというような観念をもって、御用を頂いても、そういう働きにはならないだろう。本当に神様のおかげを頂かねば立ち行かん。いうなら神様の御ひれいに浴しなければ、神様のお歓びに浴しなければ、生き生きと神のヒレイとは、生きた魚が、鯛なら鯛が鰭をピッピッと泳いで行く様をいうのです。勢いなんです。
問題はだから真から用いるという事であります。いうなら最近言われる信心の真を其処に現すというのです。
昨日も十三日会、午後から研修を致します。ところが大祭前の御用が、内外の御用がも少し残っておるから研修を遅らかしてもまた研修を取り止めてでも御用に当ったならどうだろうかと信徒会長が此処でお届けがあった。
だから私が一時になったら皆が此処に上って来るように言って下さい。研修を致します。御用というものは氏子が真から用いるものでなからねばならん。二荷一荷じゃいかん。もう十三日会に出て来とる、研修に出て来とるから、もう出て来とるついでに御用してしまえば明日出て来んでんよかけんでと。
なるほどそれの方がプラスになるごたる、ね。一日儲る。信心の研修しよりゃ、信心の話合いをするだけであったら、何もプラスにならんようだけれどもです、プラスになるようであって、そういう事ではせっかく半日なら半日の御用を頂く、半日を研修に当たる、その御用が、研修が研修にならない。神様は御用として受けて下さらん、ね、ニ荷一荷じゃ。
それでは間違いなしにプラスになる94であってマイナスになるという事。
昨日秋吉さんが帰られる時にお届けされるのに、研修が始まるからお広前に集まってくれ、と言われた時向分は硝子拭きをしとった。あと何枚かで終る。早うと言われるから、まちっとこれだけしとくと片付くと思うけれども、集まれと言われるから集まった。そして昨日の例えば私が二荷一荷の事じゃいかん。また十四日、今日改めて出て来ねばいけん。その訳を頂かして頂きよったら、なるほど明日もう一日御用に来らせて頂くことを神様に。
それは片付けた方がよかろう、みたいですけれども、片付け事では御用にならん。いわゆる真から用いる事にはならん。残っとるなら残っとるところを明日またおかげを頂く、いかにも二日間にまたがる御用のようであるけれど、それが真から用いる事であれば決して無駄にはならんどころではない。それこそ氏子の用は神が足してやると仰せられる働きをする事ができれる体験を積んで行かなければ、金光様の御信心の本当の有り難さは分からん。
真というものがどんなに尊いものか。
昨日秋永文男さんが発現しとりました、ね。
十日の月次祭から御用が続いておる。けど私は皆さんのように毎日は続かん。御用を頂く事ができない。そこでです、一日なら一日人様のようにいうならばべんべんだらり(のんびり)という、べんベんだらりとした御用はしてもつまらんとこう言うのです。
だから受け応えのある一日なら一日御用をさせて貰う。その代りそこに一心の真を現す、信心の真を現す、氏子が真から用いるといわれる、その真から用いるその心を御用に打込むんだ。
確かにこの人の行き方はそうです。もう人が見るとか見らんじゃない。神様に交流するものを自分の心の中に感じる。御用をする事を、神様が喜んで下さっておる事を自分の心の中に実感する。神様と交流するくらいの御用をだからさして頂きたいと言っております。いわゆる真から用いる。
今日私が頂きました、いわゆるプラスマイナスということの意味がお分かりになったろうと思います。
いかにもお参りをする、百円のお賽銭がいる、千円のお初穂がいる、月にするといくらいくらになる。とてもそげな事は私どんじゃでけん、と普通思うのが当たり前。けれどもやっぱり参るたびにどうかせにゃ気の毒か。そういう事では金光様の御信心の寄進勧化とお供えをしなければ拝んであげません、お取次してあげませんという事ではない。氏子が真から用いるものならば木の葉―枚でも神は受け取るのだというくらいの神様なんです。 寄進勧化というのは全然なさらない。いくらいる、いくら上げんならんという事が全然ない。そこに金光教の一つの持異性というのがあります。
けれども私共が信心によって徳を受けたい、信心によって真に幸になりたい、それには神のヒレイに浴しなければ人間の真実の幸はない。
そこで神のヒレイに浴せられる為には氏子が真からと仰せられる、今合楽で言われる信心の真を現わすという事。
だからいうならば秋永文男さんじゃないけれど、人は三日でも毎日出なさるけど、私は例えば一日しか出られないけど、その一日を純粋な真で御用させて貰いたい。そしてそこに生まれてくる体験ができたならば、こんどは二日おかげが頂けれる。
それこそ北野の中村さんの言葉じゃないけれども、もう金光様の御信心ばっかりはお参りのし儲け、お供えのしもうけ、と言うております。
お参りすりゃお参りするだけ時間がマイナスになる。お供えすりゃお供えするだけそれだけ財産がマイナスになる。決してそうじゃない。お参りのし儲け、お供えの仕儲けだというのです。それが真が内容になからなければ儲けにもならないわけです。神のヒレイに浴されないわけです。
此処に信心させて頂く者の根本的な観点、考え方というものが、信心のない者と反対ということになってくるのです。物の見方考え方が一事が万事そういうふうに変わってくるのです。そこにいわゆる幸福にならせて頂く物の見方考え方が違ってくるのです。
信心のない時には、ああ困った事だと言うておったものが、ああおかげを頂いたという事になってくるのです。そのおかげ頂いたという心におかげがあるのです。普通ではやはり時間をかければかけるだけ、その時間はそれだけマイナスになるし、金をかければかけただけマイナスになるのですけれども、信心の場合は、マイナスに普通でいうならなろうようにあるけれども、実際は限りないプラスに繋がって行くことができる。時間でも金でも理屈は同じ事。
その辺のところが私共は一遍にはできませんから、ね、少しずつ身につけて行って、そして後々でわかることは、お参りでも自分がしよるとじゃない、参らされとる、参らせて頂きよると。お供えしよるけど、お供えはさせて頂きよると、分かってくる。そしてその神様へ対するところの真から用いるところになることがです、百円が千円、千円が一万円、一万円が十万円という様に多くなって行く実績というものを作って行くという事がです、それだけの力になるのです。百円の力、千円の力、よりも一万円よりも十万円の力の方が良いでしょうが。
先日から秋永文男さんが休験発表の中にもその事を申しております。此処の御造営の時(今から九年前)の話、まだ商売を始めたばっかりでまあ幼稚な商売だった時分に、どうでも御普請が終わるまでに百万円はお供えしたいと神様にお願ひをした。まあ二年でできん時は三年五年かかっても、これだけは完逐したいと心の中に決めた。おかげで丁度御普請が二年間かかった。二年がかりで終わる時には、おかげで美事に百万円がお供えする事ができた。いうならば、梅屋支店というお店から百万円マイナスになった。
ところが私はその事以来は、百万円のお金には不自由しません、と言っております、それ以来。
私は百万円の、とてもとても神のヒレイに浴するという事は素晴らしい事でしょうが。 なるほど百万円と言えばその当時は大変だった。けども一心の真を貫いて真から用いる事に一生懸命にならせて頂いた。そして神様は、したのじゃない、させて頂いたんだという、それ以来百万円という百万円の使うて減らぬ金百両という、百両の徳という百万円の徳という徳を受けたという、こればっかりは、百万円には以来もう十年間、不自由した事はありませんと言う。マイナスが大変なプラスになる事が分かるでしょう。
私は今朝お知らせにプラス、マイナスを頂いたという、どういう事か分からなかったけれども、この御理解十五節を頂いて改めてなるほど信心でいうマイナスとはプラスだ。そのプラスこそが徳になるのだ、力になるだという事を分からせて頂いた。それは真から用いるから、その真から用いるのは神のごヒレイに浴するからだという事を改めて分からせて頂いた気が致します、どうぞ。